【森からの手紙】馬搬―馬の力を借りて間伐材を運搬、うっそうたる国有林に光を

C.W.ニコル 森からの手紙

 

130709_nic_jpt1.jpg 車や自転車で走っているとき、あるいは飛行機でその上空を通過するとき、日本が国土のかなりの部分を木々に覆われていることが実感できるだろう。秋から初冬にかけての旅なら、ほとんどの森は色や形が統一されていることにも気づくかもしれない。深緑の鬱蒼とした森か、淡い黄褐色に色づいた森か。濃い緑のほうは、たいがいスギやヒノキの常緑針葉樹。黄褐色のほうはカラマツ――秋になると見事に黄葉し、冬になる前に針のような葉を落とす、日本でただ一つの落葉針葉樹だ。あなたの目を引いたのがどちらの色にしろ、そのほとんどは第二次世界大戦が終わった1945年以降、針広混交天然林を針葉樹の単一林に切り替えるという日本の林業政策に沿って植えられたものだ。

 樹種と樹齢が同じで、一度に大量に植えられた木々は、まっすぐに育つ。形や高さが揃っていれば、伐採するのも製材するのも容易で、規格が揃ったよい材木を生産できるだろうと考えられていた。だが、ここで一つ問題が見落とされていた。それは、密集させて植えられた木々は確かにまっすぐ成長するが、光を求めていっせいに枝を伸ばすため、やがて下のほうの枝は影になり、上部だけが緑豊かになるのだ。

 こうなると、木々はそれ以上、成長に必要な光を求めようとしなくなる。枝と枝とがくっつき、こすれ合い、最悪の場合、根元の地面は褐色になってしまう。下草が生えなくなるからだ。緑が消え、やわらかな腐植土が姿を消すとともに、土壌の保水力も失われる。そこに激しい雨が降れば、雨水は地面に滲み込まず、急斜面では土砂災害が起こりやすくなる。

キャベツやラディッシュと同様、植林にも間引き(間伐)が必要だ。だが、日本の植林では、これがほとんど行われていなかった。1964年の東京オリンピックとともに「戦後」は終わりを告げ、新たな時代が幕を開ける。高度経済成長期からバブル期へとがむしゃらに突き進んだ四半世紀、大いなる自由を手に入れた日本企業は地球を縦横無尽に駆けめぐり、安い外材を買い付け始めた。それを現地で製材し、輸入する。運送するにも、販売するにも、そのほうがはるかに楽だからだ。

 今日、状況はいくらか改善されているものの、つい数年前まで日本で使われる木材製品の80%を輸入品が占めていた。国土の67%が森林である日本で、これはもう滑稽としか言いようがない。

 1960年代後半、円が強くなるにつれて、森林の育成、収穫、加工、流通と、林業のあらゆるレベルで経済的な負担は増す一方だった。林業は何世紀もの間、日本の経済と文化を支える重要な産業だったというのに。もしも、戦後この国が、多くの産業分野でそうしたように、林業技術の発展にも十分な投資をしていたら、日本の林業は今日、生き残るどころか繁栄を極めていた可能性もあるのだ――そう、母国の経済を牽引するドイツ林業のように! 

 日本の木材は概ね高品質で、正しく管理していれば持続可能な資源でもある。だが、残念なことに、この国の若い女性たちはいつの頃からか、人生の伴侶として、ヘルメットと安全靴を身につけた林業家よりも、ワイシャツにネクタイ姿のサラリーマンを好むようになった。

 

 わたしは長野県を終の住処と定め、1986年から森の再生に取り組んできた。そして昨年、県から「長野県森林大使」に任命された。

 都道府県別の森林面積では、北海道がトップで、2位岩手、3位長野となっている。ところが、今から3年前、C.W.ニコル アファンの森財団の「アファンセンター」建設に着工した際、県内だけでは十分な材木を確保できなかった。そんなに値段が高かったのか? 答えはノーだ――ただ、必要な量を手に入れるには日本中を駆け回らなくてはならなかった。わたしはあくまでも国産の材木のみを使うことにこだわった。長野県には、木はたくさんあったが、材木がなかったのだ。

 2011年は国連総会決議で定められた「国際森林年」で、わたしも国際森林年国内委員会の委員を務めた。あるとき、竣工まもないアファンセンターで国内委員会の会議が行われることになった。

 委員の方々の大半はバスで来場し、アファンの森入口の前で下車された。そこからは、森のなかを歩いてセンターへ向かうことになる。アファンの森は、80数種もの主要な木々に加え、実に多種多様な動植物が息づく生物多様性の宝庫――小さな命を保護するために、森にはウッドチップを敷き詰めた歩道が設えられている。より健康な森を育むために間引いた伐採木や剪定した枝を利用して作られたものだ。

 会議の後は森のなかで、皆さんにお茶や冷たい飲み物をふるまい、冷やしておいた地元産のトマトとキュウリにシンプルな味噌のディップを添えて供した。また、植物や生物観察などのプログラムを設け、テーマごとに分かれてアファンの森の中を財団のスタッフが案内した。その折、林野庁長官を、アファンの森と国有林との境界にお連れした。片や豊かで活力に溢れた森、片や木々が密集し、鬱蒼とした単一種の植林。その対照的な様子を目の当たりにした長官は、頷いてこう言われた――「これは、何とかしなくては」。

 以来、林業の専門家、林野庁、長野県、地元の信濃町、長野森林組合など関係各機関との協議を重ねた結果、当財団が隣接する国有林(名称「森林・林業再生モデル林」)約27ヘクタールを借り受け、アファンの森と合わせて一体的な森林管理を推進していくことで合意、(林野庁北信森林管理署との間で)協定を締結した。今後は、各機関と連携を図りながら、新たな森づくりに取り組むことになる。過去と未来をつなぐ、歴史的意義のある仕事だ。

 われわれが目指すのは、これまで放置されていた人工林を本来の森林生態系に近づけながら、経済林(木材資源)としての価値をも高めること。また、貴重な観光資源として森の持つ癒し効果に着目し、持続可能なエコツーリズムの推進を図ることだ。ご推察のとおり、協定の文言は官僚的で、取り決めが事細かに記されているが、要約すればそれに尽きる。

 まずは密生した針葉樹の間伐を行うことが必要だという点で、皆の意見は初めから一致していた。中まで光が入るようにしてやれば、細い幹から若い枝が伸びてくる。地面に光が届けば、下草が生え、緑が蘇る。これだけで、残された木々は驚くほど力強い成長を見せるのだ。

 また、27ヘクタールの人工林を徐々に針葉樹と落葉広葉樹の混交林に変えていくという点でも、わたしたちの方向性は一致していた。それも、できれば地域原産の樹種が望ましい。これまでの経験に照らせば、混交林化を進めることで残された針葉樹の生長も促進できる。落葉広葉樹の若木は夏の間、葉を繁らせて涼しい木陰を作り、スギやカラマツの幹を強い日差しから守ってくれる。冬になれば、今度は落ち葉が土壌の保水力を高め、地味を肥やしてくれるからだ。

 アファンの森も、今から28年前、林業家の松木さんとわたしとでカラマツとスギが密生した2ヵ所の放置林を刈り込むところからスタートした。ツルを切り、よぶんな枝を払い、やせた木々を間引いて中まで風と光が通るようにして、空いたスペースには落葉広葉樹を植えた。そのおかげで、当時人間の首周りほどしかなかったスギもカラマツも、今や205リットルドラム缶並みの直径を持つ大木へと生長した。

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 わたしは、初めての間伐で切り出した丸太を、機械に頼らず馬を使って運び出すことを提案した。環境に優しい伝統的な木材搬出技術「馬搬」を再現するために、岩手県遠野市からペルシュロン種(仏ペルシュ地方原産のがっしりした農耕馬)の牡馬2頭、ダイちゃんとサムライキング、そのオーナーであり馬方(うまかた)でもある岩間 敬さん、八丸健さんと由紀子さんご夫妻、伊勢崎克彦さんに来てもらった。当日は参加希望者を招いて、午前中はアファンセンターで形式ばらない講演をいくつか行い、昼食をはさんで午後からは森へ移動して、現場での実演を行った。

 馬を使って木材を搬出するのは、長野県でも40年ほど前までは、ごく一般的なやり方だった。だが現在、このあたりに使役馬はいない。当時使われていたのはペルシュロン種よりもっと小型の馬で、雪の季節にはソリを曳かせていた。欧州や北米では今、昔ながらの伝統と最新機器とを組み合わせた“現代の馬搬”が考案され、試行されている(あちらでは、使役馬の人気が上昇中だ)。わたしは、これこそ日本がとるべき道だと考えている。馬は森林に与えるダメージが少なく、黙々と作業をこなし、なにより森での作業を豊かで楽しいものにしてくれる。

 大型機械での作業が困難な斜面に広がる、小規模ながら多様性に富む森林、皆伐よりも間伐・剪定が必要で、生態系の感受性を保護しなければならない森林――そうした場所での作業にこそ、馬搬は適している。それに、馬の姿は山の景色によく馴染み、見ているだけで楽しいはずだ!

 馬は、きちんと世話をし、訓練すれば、持続可能な労働力となる。しかも、地元でとれた作物で飼育できる。馬搬のすばらしさについては、まだいくらでも語れるが、これについては他の方々が詳しく書いておられるので、興味を持たれた読者は少しだけ時間を割いて、インターネットでそうした記事をご覧になるようお勧めしたい。

 アファンの森に隣接する国有林は、30年もの間荒れるに任されていた放置林だ。そこから伐採した丸太を搬出する過程で、馬と馬方さんが自然の地形にもたらした変化に気づいた。数十本の丸太を運び出したとき、そこに道ができていたのだ。伐採木の搬出が完了した時点で、馬搬によってできた道をすべて調査し、そのうちのどれを歩道に作り変えるか決める予定だ。歩道には伐採木や剪定した枝を粉砕したウッドチップを敷き詰める。そうすることで歩きやすくなり、森の調査をしやすくなる。これから次の間伐まで、森の生態系にどのような変化が起きるかを観測するのだ。

 搬出した丸太は、当アファンの森財団が買い上げる――間伐材といえども、国有林から切り出した丸太は国の財産なのだ。伐採木を使って、アファンの森の中に小さな橋をかけたり、今ある橋を作り変えたり。ワークショップ用の倉庫を建て、できれば、りっぱな厩舎も造りたいと考えている。

 もちろん、あくまでも地元産の材料にこだわるつもりだ。

(翻訳/森 洋子)

 

この記事は2012年12月2日に The Japan Times に掲載したものを翻訳したものです。

原文はこちらからご覧いただけます。

 





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