【ウェールズ便り】カーディフ城とビュート侯爵 1
事務局日記 婚姻による爵位の継承で晴れて伯爵家となったビュート家ですが、初代伯爵の孫の第2世侯爵ジョンは、掘られた石炭を山からカーディフに運ぶ鉄道を敷き、そしてそれを世界に向けて積み出すためにカーディフの港湾整備をして、新たな富を築きあげていきます。
現在のカーディフ市があるのもこの方のビジネス手腕のおかげで、2世候は市民からは「近代カーディフの父」と呼び親しまれています。そしてこの人は、お城を改修した第三世ジョン・パトリック・クリフトンスチュワートのご父君でもあります。 (ビュート家のご当主は、代々ジョンを襲名しています)
ビュート候2世の銅像。
自身の作品であるカーディフ湾を背にして、息子である3世が手がけたお城とカーディフ市に対面している。都市計画に沿って、大騒ぎで何度も移動しています。前回2000年には、ついに首部分を外されてクレーンでつられて移動されて、銅像ながらも気の毒でした。
ビュート候2世は生来の弱視というコンディションにもかかわらず、乗馬を愛し鹿狩りにも積極的に参加するなど、不屈の意思の人でした。ご性格はワンマンで、強引・独善的でもあったとも。こういうご性格ゆえか、何もしなくても潤沢な暮らしが出来たはずのこの人、石炭の世界需要をいち早く読み取り、当時の全資産を注ぎこんで、石炭輸送の設備事業を興します。設備工事が終了するには10年の年月がかかりました。この間お金も動きましたが、御領地の木もよく健闘しました。木にとっては災難とも言うべきなのですが、相当な勢いで立ち木を切り倒して製材し、木材は、鉄道の枕木やドックの設備にせっせとあてがわれていきます。江戸後期天保年間の頃のことです。ビュート候2世が投資した資産は、港湾設備完成後1年も立たないうちに大利益を上げながらすべてを取り戻したそうですから凄い。
ビュート候2世の領地の木材が使用されたドックの名残。
レンガの建物は、旧税関。奥は文化ホール。手間のフラットな屋根はウーエルズ議会。
港湾整備のお陰で石炭の積出し能力が上がったカーディフですが、山から次々と運ばれてくる石炭を間断無く船に積み込むには相当の人手が要ります。そしてそこに石炭がある限り、積み込むだけで日銭になるのですから、あれよあれよという間に国内はもとより、東欧、北欧、中東、アフリカから労働者がわんさかと集まってきました。カーディフにはこういった移民の人々の子孫が現在も多く住み、英国内でも有数の多重国籍市でもあります。陸では数千人の労働者が待ち受け、沖には常時順番待ちの船が数十隻も停泊していたそうで、その活気たるや相当なものだったようです。実際に白黒写真や絵で当時の記録を見ますと、港湾労働者の叫び声や汽笛の音などの喧騒が(聞いた事も見たことも無いのですが)聞こえてくるようです。鄙びた寒村にすぎなかったカーディフが「石炭首都・国際石炭都市」と呼ばれたのも頷けます。
2世候がドックの敷地内に特別に許可した、北欧出稼ぎ船員のための教会。
現在は。カフェと多目的ホール。ベイエリアの人気のキャラクター。
富の大小関わらず貴族なら放蕩三昧も珍しくなったこの時代、このビジネス感覚といい弱視をハンディとしない性格といい、ワンマンといわれようとも、ビュート候2世は強靭な精神力を持ち合わせた非凡な人物だった事は間違いありません。ところが、家庭人としてはお子様に恵まれずしかも奥方を先に亡くされて、必ずしも順風万帆ではなかったようです、、と云いたいところなのですが、強気で運の強い人はやっぱりどこかが違う。オトコヤモメとなられても程なくして、これまたお金持ちの、しかも若くて美しい奥方(初代ビュート伯爵とはここが違う)を後妻に迎えて、今度はあっという間に世継ぎの男子を設けます。時にビュート候2世50歳、申し分の無い人生でお羨ましい、、といいたいところですが、人の世の移ろいのはかない事、2世はこの赤ん坊が生後6ヶ月の時、心臓麻痺で急死してしまいました。享年51歳。パーティ前に不調を訴えて控え室に引き上げて5分後には亡くなっていたといいますから、この方の一生は羨ましいというべきか、むなしいというべきか。さらにこの生後6ヶ月の赤ん坊も不憫なり、、、と誰でも思う訳ですが、この男の子・後のビュート候3世は、ご父君の不慮の死の瞬間にその一切の財産を丸々ごっそり相続して、赤ん坊にして世界一の大富豪となるのです。物語のようなドラマティックな人生のスタートですが、これよりこの人もまた、非凡な一生を送るのです。(続)
ミラニアムセンターの斬新な設計。
オペラやコンサートで常に賑わう。
文と写真 ルイスサール奈都世(CELT21 UK)