Country Gentleman
感染症まん延 自然との調和 = C.W.ニコル

C.W.ニコル 森からの手紙

 私の書斎にある一番の宝物は古いイヌイットのランプ。過去60年間でイヌイット語のつづりは大きく変わったが、このランプは「クードゥルー(KUDLU)」という。

 黒いソープストーン(せっけん石)を彫ったもので、オレンジの房を大きくしたような形。直線的な縁の部分に溝が切ってあり、ホッキョクワタスゲなど夏のツンドラに生える植物を均等に並べ灯心とする。その下はアザラシやセイウチの皮、クジラの脂皮で作った浅いボウルになっていて、オイルを入れると柔らかな黄色い光がともる。

 今では特別な儀式用だが、北極では何千年もの間、暮らしに欠かせないものだった。長い冬が始まると、海洋哺乳類のオイルなしには明かりや暖を取ることもできなかったのだ。

    ■   ■

 1950年代後半、私が初めてカナダ北極地方を訪れた頃には大半が灯油ランプや石油ストーブに取って代わられていたが、クードゥルーはまだ大切に扱われ、年長者は光や熱の優しさを好んでいた。

 66~67年、私はカナダ政府漁業調査局北極生物研究所の技官として現地調査に当たった。舞台はグリーンランドの西に位置するカナダ最大の島、バフィン島。深く入り組んだ湾と無数に浮かぶ島の間を縫うように、人口約1500人のパンナータングの小さな町を訪ね回った。

 湾の周囲には至るところにイヌイットの狩猟基地があった。5~7人の猟師とその家族が暮らす小さなキャンプだ。私はイヌイットのガイドとキャンプを移動しながら、猟をして標本を採取し、観察記録を作成した。


北極地域を調査していた当時の様子

 極北の地に激しい変化の波が押し寄せていた。カナダ政府は、辺境のキャンプに暮らす人々にパンナータングの居留地に定住するよう迫った。子どもは学校に通え、木製プレハブ住宅は市提供の燃料油とディーゼル発電の電力で暖房も万全だ、と。

 白人の入植以来、ことに捕鯨船団が来るようになると、イヌイットの間にインフルエンザなどの感染症がまん延した。彼らの飼っていたハスキー犬は、ペットとして連れてこられた犬のせいでジステンパーに感染し激減した。

    ■   ■

 66年に私がバフィン島に入った時は既に、キャンプのいくつかは無人となっていた。イヌイットのガイド、ポーラシーは行く先々のキャンプでさまざまな逸話を聞かせてくれたが、一つだけ、案内を拒む場所があった。夏の終わり、私は「嫌なら船で待っていていい」と説得し、強引に上陸した。

 そのキャンプは風雨の届かない入り江にあり、泥深い干潟が広がっていた。イヌイットもセイウチも大好物のオオノガイを取るにはうってつけだ。だが、インフルエンザで人々が死に絶えた後、何十年もの間、放置されていた。

 一段高い砂利浜に残るキャンプの痕跡。テントはどれも原形をとどめず、残骸だけが残る。波打ち際にはベニヤ板や板切れでこしらえた粗末なひつぎが並んでいた。中に横たわるのはミイラ化し、白骨化した人。胸を締めつけられるような悲哀に満ちた光景だった。

 私はその廃虚で壊れたクードゥルーを見つけた。簡単に捨ててしまえるものではなかったのだろう。割れたところを修理した跡があった。本体とかけらの縁に沿っていくつも小さな穴を開け、丈夫な防水ひもを通してしっかり結びつけていたようだ。見つけた時、ひもは朽ち果てていた。

 私は二つに割れたランプを手に浜へ戻ると、小さなひつぎの頭のところに置き、短い祈りをささげた。干潟を渡ってポーラシーの待つ船を目指す。「何か持ち帰ったか?」との問いに、「いいや」と答えた。彼は「猟師たちは病気になった。帰りを待っていた者も皆、死んだ」とだけ言い、エンジンをかけた。

 南へ向かう荷造りをしているとイヌイットの若者と10代の少女が祖母を伴って訪れ、古びたズダ袋にくるんだ分厚い札束を差し出した。若者は「先祖がのこしたもの」、少女は「もういらないから」と言った。祖母はただほほえむと、私の腕に託した。

    ■   ■

 今、日本では連日、新型コロナウイルス感染の拡大が報じられている。朝、目覚める度に、ニュースは深刻の度を増していくようだ。人々の窮状に胸が痛む。脳裏に、カナダ北極地方の廃虚と化した辺境キャンプがよみがえった。

 メディアの情報によれば、野生動物由来のウイルスは容赦なく、都市部でも人から人へ感染を広げているようだ。

 地球上の全ての生き物は生命の輪で結ばれている。私たち人間は他の生き物にもっと敬意を払い、自然界の調和を乱さぬよう力を尽くせないものか。

C.W.Nicol

(訳・森洋子)

2020年3月 毎日新聞掲載

 

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