Country Gentleman
もっと梓を植え、育てたい=C.W.ニコル

C.W.ニコル 森からの手紙

もっと梓を植え、育てたい

 私が来日したのは昭和37(1962)年。東京オリンピックが開催される64年の2年前のことだった。

 ここ長野に居を定めたのが昭和55(80)年、そして昭和64(89)年1月8日、昭和天皇崩御によって「平成」の御世(みよ)が始まった時も、私はこの家にいた。日本国籍を取得したのは平成7(95)年――晴れて日本国民となったことを誇らしく思っている。

 そして「令和」が始まった。私が初めて日本の土を踏んだとき、まだ2歳だった皇太子殿下が天皇に即位されたのだ。古風に過ぎるかもしれないが、私は新しい天皇陛下が令和の時代に成し遂げようとされることすべてに忠誠を尽くすと誓う。

 2003年3月、京都で開催された第3回世界水フォーラムにおいて、当時皇太子だった天皇陛下は素晴らしいオープニングスピーチをされた。その後、私は小さな応接室に呼ばれ、陛下と皇太子妃だった雅子さまにお目にかかった。これより前、私は英国のテムズ川に関するドキュメンタリー番組の制作に携わり、ボートで源流からロンドン市内を通り河口へと下る旅をした。陛下はテムズ川の水上交通管制システムに関心を寄せられ、専門知識もお持ちだった。そのため、テムズ川の水質改善や、多くの支流や運河がしゅんせつ・浄化された結果、エコツーリズムが推進されたことなどについて、短時間ながらお話をすることができた。後日、陛下のご著書「テムズとともに―英国の二年間」の英訳版を手に入れた。

 06年3月には、私はカナダのバンクーバーを訪れた。自分で作詞作曲した「The Salmon Song」(サーモン・ソング)のレコーディングのためだ。初日の朝、グランビル・アイランドのパブリックマーケット(公設市場)で長女とその連れ合い(生物学者だ)とテーブルを囲み、すしをつまみながらビールを飲んでいた。すると、市場の反対側がにわかに騒がしくなった。人だかりができ、皆が日の丸の小旗をうれしげに振っている。ほとんどがアジア系のご婦人方だ。テレビ局のカメラが待ち構えるなか、両脇にいかついSPを従えた一行がやって来た。立ち上がって見ると、他ならぬ陛下であることがすぐにわかった。SPの一人が私を見とがめ、「それ以上近づくな」と言いながら下がらせようとした。その時、陛下がこちらに気づかれた。

 「ニコルさん!」。陛下は日本語で声を上げられた。「ここで何をしていらっしゃるのですか?」

 満面の笑みを浮かべ、手を差し伸べながら歩み寄られると、私に娘夫婦を紹介する機会を与えてくださった。随行団が思いがけず歩みを止めたせいで、リポーターやカメラマン、SPはちょっとしたパニックになった。「いったい、このヒゲ面で赤ら顔の男は何者だ」「どうして日本の皇太子は彼を知っているのだ」と。短い会話の中で、陛下はこれから有名な玩具店を訪れるのだと話された。良き父君だ!

 親しい日本人の友人から、陛下のお印は「梓(あずさ)」、和名ミズメだと聞いた。英名は「Cherry birch」(学名Betula grossa)。香り高く美しい花をつけるこの木は、混合林に生息する日本の固有種だ。さまざまな用途に使われ、神事に用いられる梓弓の材料としても知られる。私たちの「アファンの森」にももっと梓を植え、育てようと思う。新たな時代を迎える私たちからの、せめてものお祝いだ。

森に植えたミズメ

 

C.W.nicol

(訳・森洋子)

2019年5月 毎日新聞掲載

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