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アファンの森は今


6.C・Wニコルの森からの手紙

ご来訪

 

午後4時になりました。ここは、アファンの森に建つアファンセンターです。センターの中はとても静かですが、森の様子に耳を澄ますと、小鳥のさえずりとカエルの鳴き声が奏でるにぎやかなコーラスに時折セミが割って入るのが聴こえてきます。
天皇皇后両陛下のご来訪に合わせて準備と警備に携わった宮内庁の職員の皆さん、メディア関係者が森を離れると、上空を旋回していたヘリコプターも飛び去って行きました。
本日は両陛下の行幸啓を賜り、大変光栄に存じます。わたしたちの森は、あたたかな日差しに包まれて素晴らしい天気に恵まれました。きらめく森の深い緑の間には、涼しく心地よい風が渡ってゆきます。森に暮らす生きものたちも、大切なお客様をおもてなしするかのように歌い、花々が咲き乱れています。
わたしは、両陛下に森をご案内する大役をいただきました。森の維持管理を担当する石井敦司が、ご質問にお答えする際の補佐役として一緒に歩いてくれました。
陛下は花や木々、そして森や池、小川の生態系についてたくさんのご質問をなさっておられました。ウッドチップを敷いた小道のこと、福島の子どもたちを森に招いていることなどについてもお話しいたしました。そして木の手入れのこと、林床にダメージを与えないようにすることの大切さなどにも話題が及びます。
そして散策の最後、わたしたちの新しい仲間である馬の雪丸が、馬方の八丸健さん、下坂龍太さんと共に木材の馬搬を行いながら姿を現します…完璧なタイミングでした!
 陛下が雪丸にお近づきになりたいとおっしゃって、皇后陛下とともに森の中へと進まれました。そして陛下は雪丸に触れ、白いたてがみを撫でてくださったのです。
両陛下とアファンセンターの中でお茶をいただきながら、陛下が馬と過ごされたご自身の経験について、また私のふるさとであるウェールズについてもお話を交わしました。
「アファン」という私たちの森の名前がウェールズにあるアファン・アルゴード森林公園にちなんで名づけられたこと、二つの森は姉妹森として提携していることを、皇后陛下はご存知でいらっしゃいました。優しく微笑まれながら「ウェールズからニコルさんを追いかけて日本までやって来たケルトの妖精たちが、黒姫のアファンの森を気に入って住み着いているのかもしれませんね。」と、おっしゃってくださいました。
財団のスタッフとわたしにとって、今日は魔法のような一日でした。
みなさまも、アファンの森へ妖精たちに会いにいらしてください。
目に見えない力で、ふしぎないたずらをみなさんに仕掛けてくれることでしょう。

2016年(平成28年)6月6日
一般財団法人C.W.ニコル・アファンの森財団
理事長 C.W.ニコル

 

THE VISIT    June 6th, 2016

 

   It is four p.m. and I’m sitting at my desk in our Afan Woodland Trust centre. It seems very quiet, although in the woods the bush warblers are still trilling, frogs croaking, and cicada occasionally breaking into their loud chorus. The helicopter circling overhead has gone, together with all the police, security personnel, Household Agency officials, people from the press and everybody else who are involved in the organizing, timing and protection of an Imperial Visit.
    Yes, The Emperor and Empress visited out centre and our woods today. We could not be prouder.  The weather was glorious, warm and sunny, but cool and pleasant in the deep and vibrant green of the woods. Woodland wildlife seemed to be welcoming our guests with their songs.  Lots of flowers were blooming.
   I was elected to escort their Imperial Majesties, but trailing behind and in easy earshot came our forester Mr. Atsushi Ishii, just in case I couldn’t answer a question. The Emperor especially asks lots of questions about flowers, trees and the general biology of the woods, ponds and streams. We talked about the woodchip paths and about our program to welcome children from Fukushima. I also talked about the need to trim out trees, and to do so with as little damage to the forest floor as possible. At the end of the walk our new working member Yuki Maru, guided by Ken Hachimaru and Ryuta Shimosaka were hauling out a log. Great timing!
   It wasn’t planned, but the Emperor wanted to get close to Yuki Maru, and he and the Empress headed off the path and into the woods so that the Emperor could stroke Yuki Maru’s warm silky skin and long white mane.
    When we got back to the centre for a few quiet moments sipping tea, the talk turned to the Emperor’s own experience with horses, and then to Wales, where I was born. The Empress already knew that ‘Afan’ was borrowed from our ‘twin forest’ in Wales (Afan Argoed) and with a gentle smile she said that perhaps Welsh Celtic elves had followed me to Japan and now made their home in our Kurohime Afan woods. Today was a magical day for our staff, and myself so perhaps that’s true.  So the next time you visit, watch out for elves, they are difficult to see, and can play tricks!

 

C.W.Nicol

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ダイナミックなペア:宮城県東松島市内の東松島コミュニティセンターにて、宮野森小学校の生徒に囲まれる加藤登紀子さんとC.W.ニコル 2/12 共同

 

5年前の2011年3月11日、東北地方を大きな地震が襲い、悲劇的な大津波が甚大な被害をもたらしました。私自身は遠く離れた長野の山の中におりましたが、C.W.ニコル・アファンの森財団の関係者と即座に何が出来るか考えました。当時多く求められた募金や片付けのお手伝い以外にも我々だからこそ出来ることがあるのではないかと考えていました。財団が発足した2002年以降、我々は虐待を受けた子どもや障がいを抱える子どもに3日間にわたって自由に自然の森を体験するプログラムを提供してきました。私達はこれらのプログラムが子ども達の抱えるトラウマを緩和する効果があったと自信を持っています。

 

私達は3月11日の悲劇を体験し、家族や友人を失い、家、学校、職場が流される光景を目の当たりにした人たちの心中を想像しようとしました。また壊れた街並みの中、破壊された家屋や異臭漂う中で避難生活を送られていることも然りです。故に、被災した地域の方々を2泊3日で我々のアファンの森へ招待することを決めました。普段と違うのは子どもだけでなく、ご家族一緒に参加いただきました。悲劇的な体験の後、家族は寄り添うべきだと考えたからです。被災地各地にお送りした多くの招待の中で宮城県東松島市が最初に手をあげてくださり、2011年8月に大人と子どもあわせて27名が訪れてくれました。

 

400キロ以上離れた長野県北部の我々の森にゲストを乗せたバスが到着した時には(当財団職員が同行)子どもも大人もどこか疲れた表情で心細そうにしている方もいました。しかし、ものの数時間も過ぎぬ間に子ども達は森中を走り回り、ロープや木の枝に揺られ、森を探検していました。既に変化が生まれだしていたのです。外での遊びを何ヶ月も出来ていなかった子ども達は解放され、笑い声が森に響き渡りました。そんな子ども達を眺める大人にも変化が現れました、笑顔で目を輝かせながら沢山の質問をしてくれるようになりました。ケーキや歌でお祝いしたお誕生日会など、森の様々なプログラムに参加していただき3日目を終える頃には、私達の中に何か達成感を感じる様になりました。

 

この時に3人の大人の参加者が私にある願いを申し出てくれました。東松島市の数多くの復興計画の中の1つに、ある小学校を高台に移転する計画があるのだが、その移転先は将来の津波からは守られた場所ながら、手入れされておらず荒れた森に囲まれているとのことでした。この暗い森をアファンの森のように光りが差し込み、生物の多様性豊かな森にするお手伝いをしていただけませんか、と願い出てこられたのです。また、建設される新しい校舎が森を遊びの場と教室として繋がる為の助言も求められました。結果、この4年間に渡り、私とスタッフは毎月東松島に通うことになり、森林の保全、トレイルの整備、ツリーハウスと展望デッキの建設などをおこない、森が遊びと学びの場所となるべく精力的に動いてきました。

学校の校舎については私から1つだけ条件を提示しました。もし私がこの校舎の建設に関わる場合は、その校舎は木造でなければならないと。私は、鉄筋コンクリート製の箱には興味がなかったからです。

日本には世界最古の木造建築物である奈良の法隆寺が604年に建立されていて、それは1400年以上経った今も現役の建造物として残っている。同じく世界最大の木造建築物である奈良の東大寺も728年に建立してから今も現役です。これらの古い日本の木造建築は数多くの地震を生き抜いています。これらの伝統と現代の木造建築技術を併せると予見出来る多くの自然災害をおおむね乗り切ることが出来ます。加えて、木造建築は現代の多くの子どもが苦しむアレルギー症状を緩和し、また風邪やインフルエンザの予防にも役立つことが立証されています。言い換えると正しく建てられ管理された木造建築は子どもにとってより安全で健康的だと言えるのです。

しかし、まぁ、この点では沢山の攻撃を受けました!

日本の行政というのは鉄筋コンクリートでの建設業者と結婚しているかの様に強く結びついているみたいです。この件についてはこれまでも、今も、長く続く戦いとなりました。特に建設族とも言える政治家の方々は堅い殻から抜け出てこのウェールズ系日本人と対峙することを避け続けています。
しかしながら東松島市長、教育委員会、教員、父兄の方々、生徒や沢山の専門家が味方となってくれました。特に建設、教育、健康にまつわる専門家からも応援頂きました。

結果として我々は斬新でモダンな木造の小学校をこの戦いで勝ち取りました。
内外で著名なシーラカンスK&H設計事務所が設計を手がけ、住友林業が建設を担うことになりました。両者からはこの小学校が最低でも日本有数、恐らく日本一の校舎となることを約束してくれています。

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新しい校舎は2016年12月に完成し、翌年の2017年1月には生徒と先生方が利用を開始します。この完成に当たってはメディアからも大きな注目を浴びることでしょう。同時に従来の思考しか持てない政治家や役人からは懐疑的な意見も出るのでしょうが、それは放っておきましょう。我々の本当のサポーターと仲間が誰なのか分かっているのですから。

新しい小学校の名前は宮野森小学校と命名されました。ちなみにこの学校は『市立』であり決して『私立』ではないことをお伝えしたいと思います。宮野森小学校は津波で被害を受け、校舎は全壊こそ免れたものの周辺人口が減少した野蒜小学校の生まれ変わりとなります。新しい小学校には野蒜小の131名の生徒と、隣接する宮戸小学校の18名が合流し総勢149名の小学校となります。
モダンで光りに満ち、綺麗な空気に包まれた安全で素晴らしい小学校になり、7ヘクタールの素晴らしい森と太平洋を見晴らせます。

しかしまだ課題が残っていました。校歌が決まっていません。野蒜地域と宮戸地域の誇りを併せ持ち、子ども達が楽しく共に歌える歌が。私は古くからの友人である加藤登紀子さんに作詞作曲を依頼するという無茶な提案しました。すると周囲の全員が大賛成してくれました。

私は彼女と30年以上も親睦を深めた中であり、大ファンでもあります。彼女は音楽と共にニューヨークのカーネギーホールからアジアやアフリカの村々まで世界中を訪れています。彼女は「日本のエディット・ピアフ(フランスの著名なシャンソン歌手)」との異名を持つ素晴らしい歌手であり環境社会活動家でもあり、私の親友の1人です。彼女のコンサートで何度も歌わせて頂いた経験もあります。(ウェールズ人なもので)

2016年2月12日に子ども達、教員、父兄の方々に東松島のコミュニティセンターに集まっていただき、登紀子さんの指導のもとで生徒達は新しい校歌「森は友達」を歌い上げました。

校歌はこの様に始まります。

「高く高く青い空へ飛んで行く鳥になりたい。土の上に種を落としていつか大きな木になりたい」

冒頭の歌詞だけで観客は聞き入る様になり

「遠く遠く海を越えて旅する魚になりたい。土の上に両手広げていつか恋する花になりたい」

という歌詞が続き、コーラスの

「森はともだち、海もともだち、鳥も花も魚も」

と続きます。

宮ノ森小学校の開校する来年の1月には思いもひとしおでしょう。また、あの災害を生き残った子ども達が、次に続く歌詞を歌う頃に涙がこぼれていない人の方が少ないでしょう。

その歌詞とはこう続きます

「野蒜の里に広がる大地。畑や田んぼや浜辺は、時を越えて姿変えても命いっぱい生きているよ」

厳しく困難な闘いでした、しかし一部の行政関係者からは毛嫌いされることになったとしても、とても価値のあるものだったと自負しています。

この学校の成果が見られることが、今から楽しみです!

C.W.ニコル


The Japan Times  OLD NIC'S NOTEBOOK 2016年3月5日より

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馬と戯れる: 在日エチオピア大使とCWニコルアファンの森財団にて茶々丸を出迎える著者

ここ3年程、 CWニコル アファンの森財団では財団が所有する長野県北部森の間伐材の運搬に岩手県の遠野と盛岡から馬と関係者に来てもらってきた。また最近は近隣の国有林の管理も委託されているのでエリアが広がったばかりだ。

この間伐によって残った樹木に多くの空間と太陽光が降り注ぎ、その恩恵として生物の多様化が進んでいる。馬を活用することは大型の重機に比べて、大地や樹木を傷つけないことも利点の一つだ。
私にとって馬と協働するということは、ウェールズに暮らしていた頃の幼少期と、エチオピアのシミエン国立公園での初代公園長時代の記憶を鮮明に蘇らせてくれる。
私がエチオピアに暮らしていた1960年代後半、シミエンには自動車用の道路はまだ整備されておらず、すべての物資の搬送は馬、ラバ、ロバ、または人が担っていた。シミエンの馬の多くはアビシニアンと言われる世界有数の古来種だった。小型で頑丈、高い標高の移動に優れ、日中の高温と氷点下近くまで下がる夜の気温差にも耐えられた。

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当時の私はそれまで周辺に存在すらしなかった公園を設立する為、20頭の馬とラバを保有しており、より大きな仕事には追加で雇っていた。2頭は私専属として自分で購入した。この2頭の馬は私の相棒で、キャンプの番犬で密猟パトロールの右腕でもあったジャーマンシェパードのモーガスと同等に特別な存在だったと言えよう。

ウェールズに暮らしていた幼少時代、馬はまだまだ街の労働力として現役で牛乳、石炭、ビールを積んだ貨車を運んでいた。また郊外でも馬はあらゆる役割を担い、様々な現場や牧場で欠かすことの出来ないものだった。私は日常的に山間の牧場から牛乳を運び下ろす2輪の馬車を使って、ペグ叔母さんのコテージに遊びに行っていた。

馬車に乗る時はいつも牛乳を運び下ろす寡黙なグリフィスが隣に座っていて、私は侵略してくるローマ人と立ち向かうケルトの戦士になったつもりで高揚していた。だが現実には、この旅路で唯一過酷だったのは前を走る馬が尻尾を上げておならをする姿に笑いを堪えることくらいだった。
「草ばかり食べているとお前も同じ様になるんだぞ。」
とグリフィスに言われたことを今も懐かしく覚えている。

1962年から65年に最初に日本に訪れた時、田舎の方ではまだ馬は普通に林業や農業で活躍していた。しかし長野に居を構えた1980年頃には残っている馬は乗馬クラブで飼育されている位になっていた。

最近スタッフや友人と話合いを重ね、私は森と、その周辺の文化や景色の中に馬を復活させることを決意した。

もし大きな重たい木を山から運搬する事態が発生したら、何時でも1000kgクラスのペルシェロン種の馬を岩手から呼び寄せたら良い。でも今の森で日常的に必要な馬はより小型で30cm程の直径の間伐材を運べ、また貨車やソリを引っ張れる馬だ。この馬を活用してキャンプ道具を詰め込んで山の奥に一緒に入って行っても面白い。

加えて、私たちの森は多くのお客を迎える場所で、また子供が多いことを考えると、人間と明確な主従関係を築くのではなく多くの人に囲まれることに警戒しない馬が望ましい。この分野の先駆者の八丸健(ハチマルケン)氏と妻、由紀子(ユキコ)氏は岩手で20頭の馬を飼育していて、林業、酪農、運搬、ホースセラピーや乗馬といった分野で活躍の場を作っている。

彼らを通じて6歳の去勢馬を2頭購入することにした。いずれも素晴らしい馬で(2頭の正式名は雪丸と茶々丸)いずれも重さが500kg程、とちょうど我々の目的に即した馬たちだ。

雪丸は北海道出身、日本にある8つの古来種の中で唯一絶滅危惧されていない道産子だ。一説によるとモンゴルと中央アジアのミックス種として15世紀に朝鮮半島の漁師が運んだとされている。また別の説は江戸末期(1603-1868)に東北から運ばれてきて棄てられたのを起源とするのもある。諸説あろうがこの道産子は、大きな頭部が特徴で、内モンゴルでドキュメンタリーを撮影した際に乗っていた馬を思い出させる。丈夫で寒冷地と雪に慣れていて比較的涼しい気候にも適応しているので、我々にはピッタリの馬と言える。

もう一頭の茶々丸は4分の3が道産子で、4分の1がクォーターホースという交配だ。クォーターホースはアメリカの有名な交配種で17世紀のバージニアでイングランドとアメリカ先住民の馬を交配して開発された。先住民の馬というのは16世紀にスペインの侵略者たちが連れてきた馬で主な構成としてはイベリアン、バルブ、アラブ種だったと言われている。クォーターホースの名前の由来は4分の1(クォーター)マイル競争での驚異的なスピードから名付けられた。この頑丈で小さな馬は平日働き。週末には競争に出場できる程の体力の持ち主だ。

北米の開発に向けて人が西へと移動する中、クォーターホースは屈強な部族の馬と交配を繰り返し、カウボーイに最も好まれる品種と成って行く。乏しい飼料でも一定期間は生き残れ、1日中乗ることが出来、牛の扱いは慎重であれば恐怖は感じない。また多くのターン、ツイスト、疾走が可能でカウボーイにとって時として数千という単位にもなる家畜の動きの統率を可能にした。

先月、岩手の友人八丸健氏と岩間敬氏が再訪してくれた。今回は間伐材のログを運び出すことが目的だ。今回は不屈のペルシェロン種のサムライキングも来てくれ重いログを担当してくれた。雪丸と茶々丸も同行して初めて森の中へ入った。いずれの若馬も3日でこれから建設するホースロッジ向けに作る家具分のログを搬出してくれた。

家具はこの3年、馬が搬出した間伐材を活用した家具を製作し、スポンサーとしてもご支援頂いている岡村製作所で作ってもらうことになっている。

幸運にもこれらの出来事と同じタイミングで在日エチオピア大使のマルコス・リケ大使がシミエン山国立公園の将来について話しに、アファンの森をご来訪された。

リケ大使は多くのエチオピア人同様に、馬と共に育っていたことから、滞在中は人と馬の関係性や人類の歴史と文化の発展に於ける馬の存在について大いに盛り上がることが出来た。

彼らの訪問の後、11月24日に財団の新たなホースロッジの地鎮祭が執り行われた。2016年の中盤には建物が完成し、茶々丸と雪丸を迎え入れ、森で活躍し出す予定だ。

これは財団にとって追い続けている夢の新たな章の幕開けを意味し、読者の皆様にも関わってもらい、共に喜びを共有出来たらと願っている。

C.W.ニコル

The Japan Times  OLD NIC'S NOTEBOOK 2015年12月5日より

 

0409_japantimes.jpgC.W.ニコルはThe Japan Timesにて毎月コラムを連載しています。

内容は日本をはじめ世界の自然環境、アファンの森や身の回りの出来事など、様々です。

これまで当財団ブログ内「C.W.ニコルの森からの手紙」にて和訳を紹介させていただいたことがありますが、最新の掲載文(英文)及びバックナンバーはThe Japan Times Onlineの「OLD NIC'S NOTEBOOK」からご覧いただけます。

毎月ニコルが想いを込めて綴っていますので、よろしければぜひお読みください。

(黒姫事務局 嶋本)


 

130709_nic_jpt1.jpg 車や自転車で走っているとき、あるいは飛行機でその上空を通過するとき、日本が国土のかなりの部分を木々に覆われていることが実感できるだろう。秋から初冬にかけての旅なら、ほとんどの森は色や形が統一されていることにも気づくかもしれない。深緑の鬱蒼とした森か、淡い黄褐色に色づいた森か。濃い緑のほうは、たいがいスギやヒノキの常緑針葉樹。黄褐色のほうはカラマツ――秋になると見事に黄葉し、冬になる前に針のような葉を落とす、日本でただ一つの落葉針葉樹だ。あなたの目を引いたのがどちらの色にしろ、そのほとんどは第二次世界大戦が終わった1945年以降、針広混交天然林を針葉樹の単一林に切り替えるという日本の林業政策に沿って植えられたものだ。

 樹種と樹齢が同じで、一度に大量に植えられた木々は、まっすぐに育つ。形や高さが揃っていれば、伐採するのも製材するのも容易で、規格が揃ったよい材木を生産できるだろうと考えられていた。だが、ここで一つ問題が見落とされていた。それは、密集させて植えられた木々は確かにまっすぐ成長するが、光を求めていっせいに枝を伸ばすため、やがて下のほうの枝は影になり、上部だけが緑豊かになるのだ。

 こうなると、木々はそれ以上、成長に必要な光を求めようとしなくなる。枝と枝とがくっつき、こすれ合い、最悪の場合、根元の地面は褐色になってしまう。下草が生えなくなるからだ。緑が消え、やわらかな腐植土が姿を消すとともに、土壌の保水力も失われる。そこに激しい雨が降れば、雨水は地面に滲み込まず、急斜面では土砂災害が起こりやすくなる。

 新潟市で日本海に注ぐ信濃川は全長367km、日本で最長の川である。サケは一生を終えるために広大な海からふるさとの信濃川に今でも産卵のために回帰してくるものの、数十年前には信濃川の本流のみならず、数多くの支流にも内陸深くまで産卵のためにやってきたようだ。

 長野県北部の丘陵地にある私の書斎の窓からほんの数メートルのところを流れる鳥居川もそうした支流のひとつであった。標高2053mの黒姫山やそれよりわずか低い戸隠山からの水を集めた鳥居川は、流れが速く、ふだんは水がとても澄んでおり、水温も低い。これらの山岳からの水は鳥居川を通って、千曲川に合流し、やがて信濃川となる。

 1982年以降、鳥居川は私の生活の一部でもある。私の書斎の机から右肩越しに鳥居川を眺めることができる。窓を閉めても川の音が聞こえてくる。暖かいときには、寝室の窓を開けて床につく。すると、山からの涼やかな水の流れとそれがもたらすそよ風のため、まもなく夢の世界へと誘われる。

 その鳥居川が何年か前に暴れ、洪水を起こしてしまった。行政当局は川辺の樹木をすべて切り始め、川を壊してコンクリートで固めてしまうというお決まりの工事をやろうとしていた。それに対して私は、文句を言い、専門家を招き、実際、政府に建設計画を変えさせることに成功した。

 堤防をコンクリートで固める代わりに、大きな石を使うことになった。その結果、イワナやカジカなど小さな魚たちが戻ってきた。そのおかげで、ここでは川は美しく健康的である。しかし、下流ではさまざまな問題が今も続いている。ダム、夏になると水温が高くなり過ぎる浅瀬、汚染、あちこちにある不毛なコンクリート。これでは、サケも鳥居川まで上って来られまい。

 とは言え、川の専門家で元教授の大熊孝博士のリーダーシップのもと、新潟水辺の会の活動のおかげで、事態は少しずつ改善してきているようだ。今年の3月24日、新潟水辺の会は、長野県木島平にある持田養魚場から20,000尾のサケの稚魚を入手し、私の書斎の窓のすぐ下にある鳥居川に稚魚を放流した。

稚魚放流の様子

ご存知の方もいるかと思いますが、ニコルは毎月The Jpan Timesにてコラム“OLD NIC'S NOTEBOOK”を掲載しています。

アファンの森での出来事や身の回りの出来事、日本の環境や世界の自然環境への想いを語る素晴らしい内容なのです。

しかし、英文のため読むのはちょっと・・・

という方は多いと思います。

「それはもったいない。より多くの人に読んでもらいたい。」というニコルの想いもありまして、

今後、「これは皆様にお伝えしたい!」というものを中心に、日本語訳をして発信していきたいと思います。

 

どうぞお楽しみに。

 

掲載文はThe Japan Times Onlineからご覧いただけます。
(リンク先:http://www.japantimes.co.jp/life/column/old-nics-notebook/

 

(黒姫事務局 大澤)

 

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